1968年愛媛県宇和島市に7人兄弟の長男として生まれる。
18歳 建築家を志す!
高校卒業時に人生計画を立て、建築家を志すも、17歳の時に父親が癌でなくなり、大学進学を断念。
高校卒業後は、トヨタ自動車に就職し、2年間で200万円を貯めて、建築家になるべく専門学校への進学を目標とする。
これは人生における初めての目標だったかもしれない。
当時の初任給は、手取り額で13万5000円であったが、月の生活費を3万5000円にし、毎月10万円を貯金し、学費を確保していく。
しかしトヨタ自動車の工場勤務は過酷で、夏場は1週間で7kg体重が落ちるということもあった。
鏡を見て自分の変化に驚いたこともある。
2年目が過ぎようとした時、貯金は既に200万円を超えていた。
しかし、自分の将来に対して漠然と考えるようになり、このままで自分はいいのだろうか、悶々と悩む日がと続いた。
入社後半年経った頃、バイクを買ったことをきっかけにして職場の上司との折り合いも悪くなっていた。
当然のことながら、車会社でバイクを買ってはいけないという、暗黙のルールがあり、事故を起こした場合は会社を辞めろ、というようなことを言われ、うまくいかなくなったのであった。
数日間、悩んだ際に出した答えは、
『とにかく、自分の一番やりたいことをやろう!』
自分は、まだ二十歳だ。大学に行ったと思えば、まだ2年ある。
それに金は働いてまた貯めればいいじゃないか。
そんなことより、このままでは自分はだめになってしまうのではないかという、漠然とした不安が非常に強かった。
今考えると何かから、逃げたかったのかもしれない。
夜勤の勤務中明け方まで工場のラインで仕事をしながら何をするか考えた。
「アフリカのサハラ砂漠をバイクで横断する」
それが真っ先に思いついた考えであった。
高校生の時に中古のモトクロッサーを購入し、山でバイクを乗り回していた私は、パリダカールラリーに憧れていた。
日本人で初めてパリダカールラリー(2輪部門)に出場した加曾利隆氏に憧れていた私は、加曾利氏の「アフリカよ、アフリカよ」という著作に感銘を受け、自分も世界中をバイクで横断することを夢見ていた。
しかし、砂漠でバイクが故障したら間違いなく死んでしまうな、とビビッてしまい、アフリカ行きを断念する。
(そういえば加曾利隆氏はバイクが故障しても修理できるように、アフリカ旅行の前に1年間バイク屋で働いていたな・・・)
次に、思いついたのが、
『ハーレーでアメリカを一周する!』
というものであった。
小学校6年生の時に、大好きだったテレビ番組の「西部警察」で、舘ひろしが、ハーレー・ダビッドソンに皮ジャンを着て跨り、拳銃を撃ちながらハーレーを運転しているというとんでもない刑事にあこがれていたせいで、「いつかは、ハーレー」と心の中で思っていた。
「これしかない!」
と意外とあっけなく決まってしまい、1年後にアメリカをハーレーで横断することを決めてしまった。
休憩時間に後輩にその話をすると、
「アンタは、そんなことばっかり言ってるから、『変わりもん』『変わりもん』て言われるんや」
と馬鹿にされてしまった。
しかし、後輩に笑われても意外に私は真剣であった。
1年後バイクでアメリカを横断するために何をしなければならないか、を考えて、とりあえず、
「英会話を勉強して、バイクの限定解除をとるぞ!」
と目標を定めて早速、実行に移していった。
まず英会話教室を探して申込み、NHKの「基礎英語」「続・基礎英語」のテキストを買いこんできて、毎日ラジオをラジカセで録音して何度も何度も繰り返して聞いて勉強した。
それにしてもなぜ日本人は、中学校と高校で6年間も英語を勉強しているのに、英語がしゃべれないのであろうか。
英会話教室に初めて行った時に、挨拶もまともにできなくて、とても恥ずかしい思いをした。
しかし、この英会話教室では大きな出会いがあった。英会話の教師はNZ人のレイモンとジャッキーというワーキングホリデーで日本に来ているカップルであった。
初めての授業はレイモンとの個人レッスンであったが、レイモンから
「なぜ、英会話を習うのか?」
と質問された私は、もちろんカタコトの英語とジェスチャーと下手なイラストを総動員し、
「1年後に、アメリカに行ってバイクで旅をする」
「テントと寝袋を積んでキャンプしながら旅をする」
「ハーレーでアメリカを一周するのが俺の夢だ!」
と説明した。
すると、レイモンは、
「Excellent!」
と、叫んだのです。
私はエクセレントの意味がわからなかったので尋ねると、
「Goodはわかるか?Goodの上がVery Goodだ、Very Goodよりも上なのがExcellentだ。
ムネヒロ、お前はExcellentだ」
と褒めてくれたのです。
それまで私の周りの人間は、アメリカ旅行の計画を馬鹿にしたり、笑ったりする人たちが多かったので、このことは私にとっては衝撃的な出来事だった。(人から認められるってほんとに大切なんですね)
次に取りかかったのが、バイクの限定解除の免許の取得だった。
当時はまだ教習所で、限定解除の免許が取れなかったため、国家試験の中で最も合格率が低いのがバイクの限定解除の試験だった。
結局6回の試験を受けてようやく限定解除の免許を取得することができたので、すぐにバイク屋に行き、ハーレーのスーパー・グライドという130万円のモデルをキャッシュで支払い新車を購入した。
バイクは手に入れたものの、今度はビザの問題が持ち上がった。
アメリカに観光で行くのには3ヵ月以内であればビザは必要ない。
しかし私は、どうしても1年間行きたかったので、旅行代理店を通じて1年間の観光ビザを申請した。
4回申請しても許可が下りず、旅行代理店の方にも無理だといわれてたが、何と5回目で、アメリカの領事館の人が会って面接していただけるということになった。
大阪の領事館に行き、総領事が面接してくれた。
「なぜ、あなたはアメリカに1年間行きたいのですか?」
と質問された私は、
「私は小学生の時から、ハーレーダビッドソンが大好きで、ハーレーでアメリカを一周するのが子供のころからの夢でした」
と多少というよりも、10倍くらい自分の夢を誇張させて一生懸命話した。
すると、パスポートに“ポン”とハンコを押してくれた。
あまりにもあっけなく、初めはビザだとわからないくらいでしたが、これで何とかアメリカに行く目処が立った。
日本で購入したハーレーでアメリカを1周する予定だったのだが、日本からの輸送費に50万円かかることがわかり、このバイクをアメリカ行き直前に売却して、アメリカで新たに中古のハーレーを購入し、旅はスタートした。
幼稚園から高校まで一緒だった同級生がLAに住んでいたため、とりあえずロスに行って中古のハーレーを購入し、LAからとりあえず東に向かった。
ロスからアリゾナへ向かいグランドキャニオンやモニュメントバレーでキャンプをしながら、テキサスを経由してフロリダを目指した。

< Take photograph by Mizutani in Arizona>
最も印象に残ったのは、モニュメント・バレーで、映画「イージー・ライダー」で、ピーター・フォンダやデニス・ホッパーが走っていた路と同じ道を自分がハーレーで走っていると思うと、やはり高揚感があった。

< Take photograph by my self in Red Canyon>

< Take photograph by Mizutani in Arizona>
しかし、モニュメント・バレーのキャンプ場で、ハーレーのエンジンがかからなくなってしまって、トラックを借りてきて、二日がかりで、500km離れた、バイク屋にハーレーを運んだり、ニューメキシコのバイク屋でOIL交換したらボルトがしまってなくて、高速道路を走っている時に、エンジンオイルを垂れ流して走ってしまい、「ガッコン、ガッコン」という音で異変に気づき立ち止まって見ると、エンジンOILがまったくなくなっていて、立ち往生してしまったり、数々のトラブルがあった。

< Take photograph by Mizutani in Arizona>
※モニュメントバレーで動かなくなったハーレーを運んだUHALのトラックにて

< Take photograph by Mizutani in Utah>
話すと長くなるので書かないが、詐欺師にもあった。(もちろん私は騙されてませんが、旅の途中で出会った日本人の大学生二人は騙されていた。後に知ったことだが・・・)
トラブルに見舞われたものの、やはりアメリカ一周は、今までの価値観を覆すような経験も多かった。
テキサスから、大きな橋を渡ってイリノイ州に入ったとたんに、気候が変わっていた。
それまでの乾いた大地が一変して、ジャングルの森を切り開いたような亜熱帯の湿気を帯びた気候に変わり、州が変わるだけでこれほどまでに気候が変わるのか、驚かされた。
フロリダの海の青さと透明感に感動したり、でも夜になると、膨大な数の蚊に背中を300個所くらいかまれたり、四国の半分の面積だという、イエローストーン国立公園でキャンプしたり、(しかし四国の半分の面積の公園って、なんなんだと思った。エントランスからキャンプ場に行くまで、3時間かかった。)
やはり広大な大地の大きさは、日本では感じられない壮大なものだった。
フロリダから、シカゴに北上し、シカゴを通過して、北部を回ってカリフォルニアに帰って来た。
お金がなかったため、ジャパニーズレストランなどでアルバイトして、再び、スタージスという、ハーレーが10万台以上集まるイベントに参加したりして、1年間アメリカで過ごした。
今でもあの頃のエネルギーと行動力をうらやましいような、懐かしいような感慨にふけることがあるが、そんな風にして20代の前半を過ごした。
日本に帰ってきて、アルバイトを転々としながら、世界中をバイクで旅行しようか、アメリカの大学に留学しようかなどとぼんやりと考えていた。
そんな時、「ジャパン・タイムズ」という英字新聞に元明治大学の教授で、「パンツをはいたサル」などの著書で有名な栗本慎一郎先生が、「栗本慎一郎自由大学」という大学を作ったという記事を目にした。
以前から、栗本先生の著書はほとんど読んでいたので、すぐに申し込んだ。
まさか受かるとは思わなかったのだが、なんと合格してしまった。
この学校は、知的好奇心を沸騰するくらい刺激的なもので、栗本慎一郎先生の他、中谷巌先生や、斎藤精一郎先生、文化人類学者の山口昌男先生、宗教学者の中沢新一先生、一橋大学の学長であった阿部勤也先生、ドイツ法学史の権威である京大の教授の河上倫一先生など、おそらく当時の日本の大学で講師陣は、日本一レベルが高かったのではないかと思う。
そんな方々と講義の後、居酒屋で一緒に飲んだりして、いつもくだらない質問したりして、栗本先生に叱られたりして楽しく過ごした。
その後、栗本先生が、衆議院議員選挙に出ることになり、選挙を手伝うことになった。
たしか、2週間程度であったと思うが、選挙事務所に寝泊まりし、1日20時間働いた。
ここには、書けないような本当にいろんな人たちが出入りしており、これまたエキサイティングな経験だった。
楽しかったが、2週間で体はボロボロになり、その後半年ほどなぜかわからないが毎日鼻血がでた。
今まで働いた中で一番きつかったかもしれない。
結果的に、栗本先生は選挙に当選し、衆議院議員となる。
そしてなんと私は、先生の秘書として、議員会館で働くことになってしまった。政治家の秘書である。
しかし、これはあまりにも自分の性格には向いておらず、3ヵ月ほどで辞めてしまった。というより、ほとんどクビだった。
政治家の秘書を辞める時に、アメリカで知り合った友人、会社に来ないかという誘いを受けた。
不動産会社の営業の職であったが、知り合いに話すと、話した全員に反対された。
反対した理由も皆同じで、
「お前みたいに、愛想の悪い奴は、営業なんかできない」
というものであった。
皆に同じことを言われたので、カチンときて、
「よっしゃあ、そんなに言われるんだったら、やってやろう」
という気になり、結局その会社に入社することになった。
この会社でもいろいろな出会いがあり、恐らくこの会社での出会いがなければ今の経営コンサルタントとしての私はない、というくらいのきっかけをいただいた。
(この辺のいきさつは、拙著「あなたの会社の赤字は1年で解消できる」をご参照下さい)
この会社では、営業というものを本当に上司の背中で教えていただいた、ダメ営業マンだった自分を見捨てず、面倒を見ていただいた懐の深いかつての上司には今でも感謝しきれない。
5年間、この会社にお世話になり、東京、福岡、大分、広島などいろいろな拠点を回り、本当に多くの経験をさせていただいたが、自分の将来に対する漠然とした不安と期待と入り混じった感情が芽生えてきて退職した。
この時、30歳になっていたが、半年ほど悩んだ末、経営コンサルタントになることを決意する。
しかし、高卒の私には、受け入れてくれるコンサルティング・ファームは皆無であった。
そこで、何か資格でも取らなければと思い、中小企業診断士の資格を取得することを決意する。
「お前は、頭が悪いんだから、人の2倍勉強しろ」
と自分に言い聞かせ、毎日14時間くらい勉強した。
この時はホントによく勉強した。
歩く時も、風呂に入っているときも、食事の時も、トイレでも勉強した。
スポーツクラブで、中小企業白書を読みながらランニングマシーンで走っていると、通っていた学校でも評判になっていたらしい。
夜遅く、肘が痛くてもう字が書けません、というくらい勉強した。
絶対に一年で受かってやると思っていたが、結果は、不合格。
自分の頭の悪さには、嫌になった。
周りは皆、
「あれだけ頑張ってだめだったんだから仕方ないよ」
「よくやったよ」
などと言われたが、当然自分は納得できるはずもなく、
「あと、一時間勉強ができなかったか」
「もうあと一ページも本が読めなかったか」
と、自責の念に駆られていた。
どうすれば、二十歳の頃のハングリーさとギラギラしたエネルギーを取り戻せるか悩んだ末、一番嫌いで嫌な仕事をすることにした。
(具体的には、何か書きたくないし書かないが、悪いことではありません。その職業の方に失礼なので)
その仕事を一日やっただけで、モチベーションはメチャクチャ上がった。
絶対ここから抜け出してやる、という強烈なモチベーションがわいてきた。
そして、翌年、なんとか診断士の試験に合格し、コンサルティング・ファームに入社することができました。
コンサルティング・ファームに入ってからのことは、
拙著「あなたの会社の赤字は一年で解消できる」
もしくは改善事例小冊子をご覧ください。
これが、私のプロフィールです。
最後まで、読んでいただいた方には、本当に感謝です。
ありがとうございました。
今振り返っても、楽しいエキサイティングだったなぁと自分ながら思います。
そして、今も充実して、エキサイティングで、やりがいのある日々を送らせていただいてます。
かかわっていただいた全ての人に感謝の気持ちをこめて
水谷 宗弘
〜最後に〜
私の宝物を紹介します。
ある企業の再建のお手伝い2年間担当させていただきました。 そして、その一年後の春先、総務部長から一通のメールが届きました。
送信元 |
■■■■■■■■■■ |
送信日時 |
2006/05/30 16:39 (+0900) |
宛先 |
水谷宗弘 ■■■■■■■■■■ |
CC |
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表題 |
59期決算の結果について(ご報告) |
毎日ご多忙のことと拝察いたします。
他事ながら、当社59期の決算が出ましたので、概況をご報告いたします。年度予算完成工事高11億円、期末賞与支払前営業利益45百万円スタートしましたが、期末賞与35百万円支払後94百万円の営業利益を確保でき、所得税33百万円引当後当期利益50百万円となりました。
再生3年目の決算で大きく花が咲きました。
別添「営業報告書」に書きましたように、一般工事、公共工事の厳しい状況は変わっていないものの、公共工事下請の大口赤字工事の減少と大きくは戦略的に重視した電力Gの工事受注完成の増加に支えられ(工務Gの人的応援など)て今回の成果となりました。
ご指導いただきました意識改革は勿論、実行予算管理強化などのほか、いろいろ取り組んだ会社再生への全員の努力が実ったものと評価しております。
まさにこの機に及んで、これまで得た教訓を生かし「危うきを忘れず、乱を忘れず」の気持ちをさらに強くし、一層気を引き締め、まだまだ多い課題解決に取り組んでいく所存です。まだ社内営業会議で本件報告しておりませんのでまだ胸の中にしまっておいてください。よろしくお願いします。まずは取り急ぎご報告まで。 |
添付ファイル |
株主総会営業報告書(17年度).doc [base64] |
私は、このメールを見た時、会社のトイレで嗚咽しながら泣きました。
涙をこらえることが出来ませんでした。
あんなに泣いたのは生まれてはじめてのことでした。
「あの倒産しかかっていた会社が、よくここまで・・・」
実は、この会社は、私が担当させていただく前に売上高11億円前後でありながら、3期連続赤字、しかも直近の2期は、1億4,000万円、1億2,000万円の営業赤字を出し、決算書を見ただけで、間違いなく倒産すると思った会社でした。
そんな状況からの社員の皆さんの頑張りを思うと、うれしくて、うれしくて・・・・
その夜メールを送っていただいた総務部長と電話で話し、二人とも話しているうちに涙が流れてきて、二人で電話しながらずっと泣いていました。
この企業の改革は、この総務部長なくしては成し得なかったでしょう。
この総務部長こそ、まさしく『真のリーダー』ではないかと思います。この総務部長がいなければこの会社は恐らく倒産していたでしょう。
たった一人でも本気の人間がいれば会社は変わるんだなぁということを教えていただいた私の恩人のような方でもあります。
私がこの方を尊敬してやまないのは「なぜ、ここまでできるのか?」という位の覚悟を持って会社の改革に臨んだからである。
この会社を調査して際、ある問題のある人物に行き当たりました。
それは一人の役員O常務の存在です。
社内では、社長に対してですら傍若無人な態度を取り社員からは恐れられていました。
業者との癒着もささやかれ豪邸のような自宅と別荘を持ち、奥さんまで外車を乗り回していると社員の中でも評判になっていましたが、この数年の業績悪化にも係わらず役員報酬については一切下げないと強硬姿勢を取っていました。
理由は、経営の悪化は社長の責任であり、自分には責任がないとのことです。
私は、役員が経営責任を明確にしなければ改革は絶対に失敗すると社長を説得し、臨時取締役会を開催し、役員は全員、役員報酬を50%削減し、銀行からの借入金に対して債務保証を行うように取り決めをしていただきました。
他の役員が全員腹を括り、条件を飲んだのに対し、このO常務だけは、役員報酬の削減については応じたものの、借入金の保証に対しては、最後まで応じず、その場で席を立ち役員を辞任したのです。
私に対して「あの常務がいたら会社は絶対によくならない」と言っていた社員たちも、退職には驚き、
「あの人がいないと受注が取れない、受注が取れなくなったらあなた(水谷)はどう責任を取るんだ」
などという批判的な言動も多くなりました。
その後の結果は、受注が増加し、外注費は大幅に削減され、O常務が係わっていた関連会社への資金流出もなくなり退職していただいたのは大成功という結果になったのですが、新たな問題も発生しました。
株主総会で、株式の50%を所有する前社長一族(残り50%の株式は現経営者一族が所有)がN部長を役員にしろと強行に主張し、株主総会が紛糾したのです。
前社長一族からすると現在の業績悪化の責任は、今の経営者にあり、信用できない。
だからN部長を役員にしろとのことでした。
N部長からどうすればよいかとの相談を受けた私は、N部長に対して役員になってくださいとは言えませんでした。
もちろん会社のことを考えればこのN部長に役員になっていただければこれ以上心強いことはありません。
しかし、役員になれば借入金に対して債務保証を行わなければならない。ましてやこの規定を提案したのは私自身なのです。
このN部長は、当時60歳を越えられていたが、この会社に入社してまだ一年半しか経っていませんでした。つまり最悪の状態にあった会社の業績に対してなんの責任ないのです。
銀行を退職されたあと数年間別の会社で勤務し、悠々自適の生活も出来るはずであるが、縁がありこの会社に入社していました。
銀行の出身であるだけに会社の経営内容を憂いて改革に尽力していたのですが、そのN部長に対してそこまで責任を負わすことはできない、万が一会社が倒産した場合、この方の生活はどうなるのか?そう考えた私は、
「私はN部長に役員になれとは言えない、一年後改革が成功し、会社が安定してから役員になってほしい」
と伝えました。
しかし、N部長の返事は私の予想外のものでした。
「私は、役員になったとしても給料ももちろん上げてもらうつもりもありません。
しかし、この会社を立て直すには、水谷さんがいつも言っているように総務・経理がしっかりしなければなりません。
そのためには、自分がやらなければならないのではないかと考えています。」
と言って役員になることを引き受けたのです。
この話は、改革が成功した一年後の話ではなく、改革に着手し、結果がどうなるかわからない先行きが不透明な際の話です。
数年たった今でもNさんと会話した時のことは鮮明に覚えています。
絶対に失敗はできない。
何が何でも成功させなければならない、私自身も強く決意しました。
私は今でもこの方、N部長が
『なぜ、ここまでできるのか?』
正直わかりません。
ただひとつ言えることはこのNさんがいなければこの会社の改革は、成功しなかったであろうということだけです。
「役員の覚悟とはかくあるべき」
Nさんから教えていただいた経営に必要な覚悟とは、私にとって今は財産であると思っています。
私が人生で最もうれしかったメールを頂いた数日後、再び総務部長からメールが届きました。
送信元 |
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送信日時 |
2006/06/24 18:30 (+0900) |
宛先 |
水谷宗弘 ■■■■■■■■■■ |
CC |
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表題 |
お礼 |
水谷宗弘様
毎日ご多忙のことと拝察いたします。
先日はいてもたってもの気持ちで決算情況をご報告のところ、全身全霊ご指導を下さった水谷様から感激のお言葉をいただき、先がまったく見えない中でご指導を受けながら、お互い決死の覚悟で取り組んだ日々のことが思い起こされ私も感きわまり抑えきれず、泣いてしまいました。本当にこの日が実現できたことに、あらためて感謝申し上げます。
ありがとうございました。
本日はデパートで使い勝手の良さそうなお買い得のビジネスバックが目に留まり、些少で、気に召されるやも省みず気持ちでお贈りさせていただきました。お仕事のセカンドバックにでも使っていただければ幸いです。 では、ますますのご活躍を祈っています。
2006.6.26 ■■■■■■ |
これは、その時、総務部長からいただいたもので私の宝物です。

『 人様の喜びの中に、自分の幸せがある 』
ということを教えていただいたN総務部長とかつての上司に心からの感謝を込めて
経営コンサルタント・中小企業診断士
水谷 宗弘